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三角猫の巣窟

三角猫の巣窟

なぜ日本の純文学はつまらないのか


なぜ日本の純文学がつまらないのか、私なりに考えたことを整理するために書いておくことにした。私は無知で無教養な若造なので、偏見と不確実な情報を含んでいることをあらかじめ断っておく。

●純文学の新人賞が機能していない


・選考基準が不透明

文学賞の新人賞には選考委員の抱負のコメントが載っていたりするけれど、どこをどう評価するスタンスなのかという選考の基準は載っていない。それゆえに選考委員ごとに着眼点がばらばらで、何がどう評価されたのかよくわからないようなものが受賞している。
芥川賞や直木賞といった知名度が高い賞ですら選考委員の誤読がまかり通っていて、しばしば作家間の対立を生んでいる。芥川賞以下の価値しかない純文学の新人賞となれば、それよりも手抜きの選考状況となる。例えば水原涼「甘露」のように、文學界新人賞で筆力を評価されて受賞して芥川賞の候補作になったものの、芥川賞の選考で逆にぼろくそにけなされるケースがある。本来ならば激賞するほどの水準でないものがどういうわけか激賞されて新人賞を受賞して、分不相応な芥川賞の候補になってしまったといえる。もし水原涼が芥川賞を受賞していれば男性で最年少受賞となるはずだったけれど、作品本位で候補作を選んでいるのではなく、話題を作るために「最年少」をダシにして候補に推したとしか思えない。技術を基準に選考していれば評価が大幅にぶれることはないはずだけれど、技術を基準にせずに主観的な好みで選考しているので選考委員ごとに評価がまったく違うことになる。
純文学では密室で選考して、受賞作と選評を発表して終わりという閉鎖的なシステムになっている。選考の透明性を確保するために選考過程をオンライン生放送したり著者にインタビューして自作の見どころを解説するくらいのことはやろうと思えば簡単にできるし、やれば注目が集まるはずだけれど、どの文学賞でもやっていない。出版社自体が保守的なのだ。
選考基準が不透明だからこそ、純文学の賞レースにはいつもコネ疑惑が付きまとう。「爪と目」で芥川賞を受賞した藤野可織は文学界新人賞を受賞してデビューした際には京都コネシスターズと呼ばれていたし、文藝賞の選考委員をしていた高橋源一郎の元嫁が文藝賞を受賞したりしている。選考委員がコネはないと否定しても説得力がない。
なぜこんなのが選ばれるのだ?と大勢の読者が疑問に思い、否定的なレビューが殺到するような状況になっても、紙面の都合で選考委員のコメントは限られていて、読者を納得させるほどの理由付けができないまま、純文学への不信感だけが増幅されていく。
体操やフィギュアスケートのような採点競技だと技術点や構成点の基準がはっきりしているので、選手が競い合ううちに一つ一つの技が洗練されていって常人離れした高度な技ができるようになったし、採点が大幅に異なることはない。小説でも技術のうまさなり物語の面白さなりの賞レースの選考の基準がはっきりしていればそれに向けて小説家が競い合って質が上がっていくはずだけれど、選考基準が不透明なので技術的な競争が起きなくて質が上がらないのである。純文学の新人賞は長さの規定があるだけでカテゴリエラーでなければ何をどう書いてもいいけれど、何でもいいからこそ内容がばらばらでミステリのようなジャンル小説ほどの競争が起きない。じゃあなんで選考基準が不透明なままで改善しないのかというと、長く書いているだけが取り柄のアカデミックな知識がなくて文学理論や哲学を理解していないへぼ作家が選考委員をしているし、下読みの編集者も創作技術については素人なので技術の良し悪しを評価できないのだ。

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・出版社は新人を宣伝する気がない

インターネットの発展で宣伝手段が多様化して、売れないインディーズバンドでさえWikipediaを編集しているし、公式ホームページで活動内容を報告しているし、公式YouTubeチャンネルにPVを載せて最新楽曲を宣伝している。
一方で純文学の新人賞では、受賞者のほとんどがWikipediaが編集されないままでいる。各作家は公式ホームページどころか公式ブログもなく、執筆活動を続けているかどうかさえわからない。無料で宣伝をする手段が多数あるにもかかわらず、最低限の情報発信さえしないのだ。情報を扱うのが作家や出版社の本業の癖にあまりに怠惰すぎる。プロ野球選手も、力士も、将棋や囲碁の棋士も、その業界でプロとして活動することを認められた人はデータベース化されて経歴と戦績はすぐに見られるようになっている。なぜ純文学業界は他の業界で常識的にやっていることをやらないのかというと、編集者が新人賞受賞者の宣伝をする気がまるでないのだ。受賞直後は受賞者に対談をさせたりして形ばかりの宣伝はするものの、その後のフォローがない。
芸能界や音楽業界では事務所が所属アーティストを売り込むし、漫画ではデビューした雑誌の専属作家として書くという暗黙の了解があるので、漫画の新人賞はタレントのスカウトに近くて、編集者はアシスタントの手配などの面倒も見る。それに比べて、純文学では漫画のような専属契約がなく、編集者が自分の雑誌でデビューした新人の面倒を見るつもりもないので、新人作家はどの雑誌でデビューしたかは関係なくて、デビュー後に自分で作品を売り込んで複数の雑誌に掲載することになる。
文学界新人賞でデビューした円城塔、赤染晶子、藤野可織は他紙に掲載した小説で芥川賞を受賞している。しかも芥川賞の受賞作の発表は文藝春秋で行われて、文藝春秋だけが話題になって売れるものの、最初に掲載した文芸誌は読者が増えるわけでもない。自分の雑誌で手間隙かけて選考して賞金まで与えて新人を発掘したのに専属契約でもなく、フォローもせず、他の雑誌で芥川賞を取らせて他社を儲けさせて、いったい各出版社はどういう方針なのかわけがわからない。

・新人が消えていく

純文学では、新人作家は自営業のフリーランスとして最も不安定な立場からのスタートになる。純文学では各新人賞から毎年10人程度の新人を送り出しながら、誰も原稿料で食えていない。当然新人では知名度がないから、単行本も売れない。芥川賞を取った作家でさえ本が売れず、専業作家として書き続けるのは経済的に厳しいとなれば、芥川賞を取っていない純文学作家はなおさら専業作家となるのはむずかしい。兼業をしながら忙しい中で小説を書いたところで、不本意なできばえかもしれないし、新作の発表のペースも遅い。文藝春秋、講談社、新潮社といった大手出版社が純文学誌のバックについていながら、新人のフォローがされないままなので、たまに作品を発表しても本が売れることもなく、話題になることもない。デビュー後に何作か雑誌に掲載しても本が出版されない作家もいる。たいていの新人作家はWikipediaも編集されないままほったらかされて、いつの間にか新作の雑誌掲載がなくなり、そのまま断筆している。
たとえ一世を風靡した小説でも、時代の移り変わりとともに消えていくものである。しかし昨今の新人作家は消えるのがあまりに早すぎる。デビューから数年で代表作といえるものがないまま消えていく。書き続けるだけの信念や思想や才能がなかったのか、本が売れなくてモチベーションがなくなったのか、経済的事情によるものかは知りようがない。
新人がすぐに消えるのにはシステムの問題も大いに関係しているだろう。新人が消えないシステムがどういうのかというと、たとえば将棋や囲碁では院生からプロになれる人数を絞って才能ある棋士を厳選しつつ、師弟制度でベテランが新人を育てて、対局料や解説で生活できるようなシステムになっているので、副業の心配をすることもなく将棋や囲碁に打ち込める。タイトル戦の賞金額は決まってるので、棋士を増やさずに厳選することでみなが生活できるシステムになっている。
一方で純文学では、数打てば当たるとばかりに、才能を厳選することなく無責任に文学では生活できない才能のない新人を生み出し続けている。才能を厳選して受賞者なしにすればいいのに、受賞者なしだと雑誌の宣伝にならないから出版社の都合で受賞者なしにはできないのだ。昔の純文学には夏目漱石と芥川龍之介のような師弟関係もあったが、現代の純文学では誰も新人の面倒を見ようとしない。新人がベテラン作家の経験を受け継ぐわけでもなく、出版社の後ろ盾もなく、新人同士で切磋琢磨する場もないのでは、才能のない新人は消えて当然という状況である。
消えた新人がどこで何をしているかというと、○○賞受賞の肩書きを売りにしてカルチャースクールでシナリオ講座の講師をしていたり、ドラマの脚本を書いたりして、文学やシナリオ周辺の分野で活動しているらしいものの、純文学作家として再び創作しそうな気配はない。
新人が使い捨てにされて消える業界をわざわざ目指す人もいないし、職業としてクリエイターになるなら漫画家やYouTuberのほうが稼げるので、他の分野に才能をとられることになる。片手間で小説を書いて小遣い稼ぎできればいいやという程度の主婦や本業が暇になった芸能人が純文学に残るけれど、アカデミックな教養がないので結局たいした作家にならずに消える。

・新人賞の存在意義がない

新人賞をとらないでデビュー作を雑誌に掲載する作家が多い。現役京大生として芥川賞を最年少受賞した平野啓一郎は新人賞を取っていない。新潮に手紙を出して、コネで小説を掲載した。「きことわ」で芥川賞を受賞した朝吹真理子も新人賞を取っておらず、編集者との私的なコネで雑誌掲載に至った。辻原登、保坂和志といった現在では文壇の指導者的地位にいる作家も新人賞を取っておらず、編集者とのつながりから雑誌掲載してデビューして芥川賞を取った。宮沢章夫、松尾スズキ、本谷有希子、戌井昭人といった演劇出身者も純文学の新人賞はとっておらず、編集者から声をかけられて文芸誌に執筆している。演劇畑から引っ張ってきた作家を芥川賞の候補にプッシュするのが流行っているらしい。メフィスト賞(ミステリ)でデビューした舞城王太郎は純文学の賞を取っていないにもかかわらず、おそらく講談社つながりで群像で掲載されて、カテゴリエラー気味なのになぜか執拗に芥川賞の候補作にプッシュされていた。
コネだから悪いというわけではない。読者としては新人賞をとっていようがいまいが、面白い小説を読めればそれでいい。問題はコネではなく、コネがないほうの新人賞受賞でデビューした作家がほとんど育たないことだ。
1000-2000作もの多数の応募作の中から競争を勝ち抜いて、有名作家の選考委員の賞賛を得て新人賞を取った期待の新人が、編集者のバックアップもなくあっさりと消えてしまう。新人賞を受賞した作家が消える一方で、純文学の新人賞を取っていない作家が編集者の手厚いバックアップを得て順調に書き続けてステップアップしていく。これでは新人賞の存在意義がない。
新人賞をとらなくても編集者とのコネでデビューできて、コネでデビューしたほうが作家として成功するなら、何のために新人賞があるのか。公平に門戸を開いているというポーズをとるためと話題づくりのために惰性で続けているだけで、本気で才能を発掘する気はないんじゃないのか。賞金もわずか50万で、副賞500万円の江戸川乱歩賞とかのエンタメ小説の賞金額に比べると才能を発掘する気がないといわれてもしょうがない金額である。

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●純文学を読む価値がない


・日本の純文学は世界に相手にされていない

日本映画が世界に相手にされていないのと同じくらい深刻なレベルで、現代の日本の純文学は世界に相手にされていない。日本の純文学は日本人にさえ読まれていないのだから、世界に相手にされないのは当然のことだ。政府はクールジャパンで日本文化を世界にアピールしようとしているものの、純文学はまったく言及されなかった。本来は日本文学として日本文化のメインストリームに位置するはずなのに、海外に発信するほどの魅力も価値もないものとして無視されている。外国人は日本の伝統的思想や文化に興味があり、俳句にこめられた侘び寂びの精神には興味を持つものの、現代日本文学にはまったく興味をもっていない。せいぜい三島、谷崎や川端といった近代作家に日本の伝統的精神を見出そうとする程度だろう。現代社会は西洋化してもはや旧来の日本的思想や伝統は薄れていて、日本語で小説を書いたからといって内容が日本的というわけでもなく、現代日本文学は外国人にとって興味のないものになっているのだ。
作家や編集者の視野も狭く、国内の狭いマーケットにしか目を向けていない。日本の伝統的美的感覚を受け継いだザ・日本というような作家もいないし、国際的な視点から日本を相対化して描ける作家もいない。戦争、貧困、人権侵害といった世界が直面しているリアリティに目を向けず、内輪で評価されることを最終目的にした言葉いじり芸大会と化した日本の純文学が世界に受け入れられるはずもない。

・純文学の権威の失墜

そもそも純文学の権威がどこから来るかというと、明治時代や大正時代に家柄のいい家庭で育って東大を出た当時の日本の最高峰に位置する少数の知識人たちが、古典の教養や西洋から新しく取り入れた思想や技術を日本流に洗練させ、日本の純文学の基礎を築き上げてきたのだ。当時の純文学作家は古今東西の思想・芸術に精通したエリートであり、日本文化の担い手となる精鋭だったのだ。
しかし戦後はそのような権威はなくなる。経済発展して庶民でも大学にいけるようになり、資本主義の社会では金を稼いだほうが偉いという価値観に変わると、小説家に限らず、知識人自体がもはや権威や尊敬の対象ではなくなる。
それに加えて芥川賞が本の販促ショーになり、純文学は世俗化していった。くだらない芥川賞受賞作は多数あるものの、それでも読者の間で批判は共有されることはなく、純文学はわけがわからないものだ、純文学の良さがわからないのは読者に教養が乏しく感性が鈍いのだ、いうことで純文学はなんとなく権威を保てていた。
ところがパソコンが普及してインターネットで感想を共有できるようになると、純文学の権威の失墜が加速する。皆が純文学はつまらないと言う意見を共有できるようになり、ようやく読者も純文学のよさがわからないのは自分に教養がないせいではなくて、純文学自体がくだらないのだと自信をもって言えるようになったのだ。
数々の芥川賞受賞作品のアマゾンのレビューを見てみると、「こんなのが芥川賞?」「何がいいのかわからない」「賞に値する作品か疑問」「もう芥川賞は読まない」という失望の声が多数ある。私はそれがまっとうな人間の感性だと思う。物事のくだらなさを素直に受け入れられず、有名な賞を受賞した純文学作品にはすごい価値があるに違いないと思い込むほうがむしろ感性がゆがんでいる。

・マーケティングの失敗

「文学界」、「新潮」、「群像」、「すばる」、「文藝」の五大純文学誌はそれぞれ新人賞を主催しているものの、新人賞が新人発掘として機能せず、新人賞に存在意義がないのなら、五大純文学誌にも存在意義がなくなる。
純文学雑誌の各誌の発行部数は2014年の時点ではわずか7000-11000部でエンタメ系小説雑誌の半分の発行部数で、首都圏の駅中にある小さな本屋では扱っていなくて大きな本屋にいかないと見つけられなくて、発行したうちの3000冊くらいは全国の図書館の蔵書用に売っているようなものである。1995年から2019年の人文科学の学生数は大体37-40万人くらいだけれど、人文科学の学生でさえ文芸誌を読んでいない。雑誌が完売しても赤字だそうな。発行部数が少なくて中小規模の本屋で売っていないのだから、当然定期購読する読者も増えることがなく、発行部数は減り続けている。「海燕」は廃刊して「文藝」は月間から年4回の季刊に変わった。
純文学がどれだけ売れていないマイナーなジャンルなのか他の月刊誌と比較すると、「将棋世界」の発行部数は20万部、「碁ワールド」の発行部数が10万部、「美術手帳」の発行部数は6万部、「盆栽世界」の発行部数は5万部、「現代ギター」の発行部数は3万7000部。純文学は五大誌を全部合わせてようやく盆栽に対抗できるくらいの発行部数となる。大手出版社が発行する純文学誌が、中小出版社が発行する趣味の雑誌以下の読者しかしないのだ。

ではなぜそんな雑誌が存続できているかというと、純文学は雑誌部門自体は赤字でも、出版社全体では芥川賞の受賞作とかの単行本や文庫本のベストセラーで利益を回収するビジネスモデルになっている。だからこそ赤字でも文芸誌の存続ができているのだ。
しかし出版社の誤算は、芥川賞というもっとも知名度がある賞のブランド価値がなくなったことだ。ブランドの品質を保つ努力をしてこなかったのだから当然である。雑誌は赤字でも新人賞で未来の芥川賞作家を発掘することで面目を保てていたのに、新人賞が機能しなくなり、芥川賞作家もベストセラーも産まなくなったら、純文学雑誌にはほとんど存在意義がなくなる。

そもそも芥川賞からしてマーケティングやブランディングに失敗していて、プロの作家、文学者、書評家でさえ評価が割れるような、かろうじて及第点をとった小説を芥川賞受賞作として販促して、素人読者に評価が定まっていない小説の芸術性の評価をゆだねること自体がマーケティングとして間違っている。プロでさえ芸術性や面白さを理解できないのに、プロよりも知識と読書量に劣る一般人がプロ以上に小説の魅力を理解できるという道理はない。芥川賞は回を重ねるごとに「新人純文学作家の登竜門」ではなく「前衛的で理解できない小説」や「作者の経歴での話題作り」という間違ったブランド化を世間に浸透させることになってしまい、もはや一般人は芥川賞が話題だからとりあえず読むという段階を通り越して、時間と金の無駄だから読まないという段階に至った。こうなるともはや販促の意味がなく、入念にネガティブキャンペーンをやっているようなもので、芥川賞の存在意義さえ疑われる。
たとえ前衛的でわかりにくい小説を売り出すにしても、一般読者が面白さや芸術性を理解できるように解説をつけるべきだろう。それが商品を売り出す側の義務だ。しかしその解説にしても、作者の知り合いの作家や書評家が適当にヨイショする意味不明な解説が多くて、解説としてほとんど役に立たない。海外小説の翻訳の場合は専門の学者が労力をかけて翻訳しただけあって解説も充実しているものの、日本文学の解説にはそれほどの労力は割かれていない。賞を販促として使うつもりなら販促をきっちりやればいいのに、その最低限の努力すらしていないのだ。その一方で「最年少受賞」だの「三島の再来」だの「現役高校生受賞」だのとキャッチコピーで表層的な話題づくりには熱心だけれど、それは読者が小説を理解する手助けにはまったくなっておらず、ただ読者の興味を引いて買わせてしまえば、あとは読者が理解できなかろうがかまわないという出版社の読者軽視の姿勢の現れといえる。アフターサービスが悪くて詐欺的な宣伝文句で何の価値があるのかわからない商品を売る店から客が離れるのも必然である。
インターネットの時代なのに、各文学賞は特設ウェブサイトがあるわけでもなく、出版社のウェブサイトの片隅でちょろっと紹介するだけで情報が不十分で、読みたければ雑誌を取り寄せて買えという態度で、地方在住の読者や海外の読者を完全に無視している。各文学賞の受賞作が発表されてもほとんど世間で話題にもならない。

これから先、純文学雑誌の読者が増えて雑誌を増刷する可能性はほとんどないと思う。もし大手出版社でなかったら、万年赤字の純文学雑誌と云うのはとっくに廃刊になるほどの価値しかない。「海燕」を刊行していた福武書店(ベネッセ)は新人発掘の役割を果たしたものの、結局は文学そのものから撤退した。他の文芸誌もいずれ廃刊するか、エンタメ小説雑誌の片隅で純文学「も」扱うという感じになるか、最終的にはエンタメの各ジャンルに吸収されて純文学自体が消滅すると思う。SF風純文学を書く円城塔や、ホラー風純文学を書く藤野可織、ミステリ風純文学を書く舞城王太郎などの作家が出現してきて、すでに純文学がエンタメに吸収される傾向が出はじめている。中村文則は純文学でデビューしても実質的にエンタメ作家になっていて技術的にも下手だし、もはや純文学作家だからエンタメ作家よりも文章がうまいとはいえなくなっている。

・新しさという逃げ道を追って袋小路にたどり着く

ポストモダンがもてはやされてからというもの、日本の純文学は現代社会に向き合うことをやめてしまった。矛盾していてわけがわからない新しいものがおしゃれな最先端純文学ということになってしまい、リアリティを置き去りにしてうわべの新しさを追求するようになる。
囲碁や将棋では新しい手が生まれることがあるが、新しいからといって評価されるわけではない。効果的な手筋でなければ、いくら新しくても意味がないのだ。しかし純文学においては、いい内容かどうかは無視して、新しさだけに焦点が当たるようになってしまった。
最年長で芥川賞を受賞した黒田夏子の『abさんご』は新しい文体には違いない。しかし受賞後にさんざんテレビで紹介されたにもかかわらず、横書きでひらがなを多用する文体の奇抜さが紹介されるだけで、物語の内容に言及する報道はほとんどなかった。芥川龍之介は「文芸的な、あまりに文芸的な」で「或小説の価値を定めるものは決して「話」の長短ではない。況や話の奇抜であるか奇抜でないかと云ふことは評価の埒外にあるはずである」といっている。奇抜さだけに焦点があたり、奇抜さがなかったら何も話題にならないような内容の小説が芥川賞を受賞したというのは皮肉なことである。
文藝春秋の芥川賞150回記念号で芥川賞について元選考委員が語っていたが、芥川賞だからといって特別な選考基準はないという。だからこそ芥川龍之介の文学観とも相容れないような小説でも芥川賞を受賞できてしまうのだ。

新しいものは注目を引くものの、新しさ自体にそれ以上の価値はない。小説の内容の良し悪しは新しさとは別の次元の話である。読者は新しい小説だから感動するのではなく、人類の歴史の中の一場面を生きた人間をリアリティをもって書き出したから感動するのだ。激動の社会において、新しい時代の到来とともに旧来の生き方ができなくなり、新しい生き方、新しい思想が生まれ、現実主義、理想主義、ロマン主義、虚無主義、共産主義など、個々の作家はそれぞれの人生観や思想を反映して、新しい時代を生きた人として新しい小説を書き残してきた。新しさを求めて新しい思想にたどり着いたのではなく、その時代をどう生きるかということを真摯に考え抜いた末に、新しい思想にたどり着いたのだ。作家自身が同時代を真摯に生き、ときには自殺するほど悩みぬいて小説を書き残してきたのだ。現代の小説家は頭ででっち上げた空疎な文章を連ねて見せかけの体裁を整えた文芸作品を発表し続けているが、そのような中身のない小説が現代を真摯に生きている読者に感銘を与えることはない。
芸術の本質が見失われ、真善美への感動から外れた表面的な技法の新しさが評価されるようになると、それはもはや芸術としての価値はほとんどない。思想を伴わない新しさのための新しさ、技巧のための技巧、芸術のための芸術は一部の好事家が偏執するだけで、一般人が感動できる要素は何も残っていない。大人が子供に対して漫画やゲームはくだらないというのと同じように、純文学もまたくだらないものになってしまった。純文学はエンターテイメントですらなくて自己満足のためのくだらなさなのだから、エンターテイメントとしての価値を追及して改善して進歩し続けている漫画やゲームとは比較にならない。

芸術に新しいものはないといわれている。音楽でも絵画でも小説でも、そのジャンルでなしうる技法はやりつくされている。すでにあるものを再発見したり、組み合わせを変えたりして、新しさを演出しているにすぎない。技法としての新しさはなくなっても、現代は常に新しい。未来を見据えて現代に向き合いつづけることこそが、本質的な新しさというものだ。
それに新しい技法は知識や技術を蓄積して考え抜いた末にようやく発見できるものであって、文学的知識が乏しい新人に期待するようなものではない。無知で未熟ならば新しいことがやれるだろうという期待は間違いである。科学者ならば専門知識もない無知な人が新しい発見をするとは思わないだろうが、なぜか純文学では未熟な新人こそが新しいことができると妄信している節がある。
今の文壇の大御所作家連中でさえ思想的、技法的に新しい小説が何も書けてないにもかかわらず、新人にのみ新しさという最も厳しい評価基準が課せられている。まるで新卒の求人で3ヶ国語に堪能で難関資格もちで10年以上の経験があるスーパーマンを月給15万で募集するない物ねだりのような状況だ。そんな人間はどこを探してもいない。そして新しさを装った詐欺師のようなエセ作家が空疎で中身のない小説を新しいものとして喧伝するという悪循環に陥っている。
純文学というただでさえマイナーな分野で、さらに誰もやらない手法を試みるとどうなるかというと、既存の純文学の読者でさえ理解できず、ごく少数の物知りぶった評論家だけが満足するような、きわめてニッチな小説ができあがる。ごく数人にしか売れないものは、一点物の美術品ならまだしも、本のような大量生産、大量消費が前提とされている商品としては市場にだせない不良品だ。出版したところで当然売れない。そして新人賞で奇抜な小説をもてはやしてデビューさせておきながら、その後の作家の面倒を見るわけでもなく、無責任に作家を使い捨てしている。出版社にとっても新人作家にとっても読者にとっても何もいいことがないのだけれど、いったい誰のために文芸誌は存在しているのだろうか。

・純文学とエンタメの境界があいまいになっている

純文学とはなんぞや、芸術とはなんぞやという定義は難しく、個々の小説が純文学か否かというのを判断するのも難しい。純文学出身の作家がエンタメを書くこともあるし、逆にエンタメ出身の作家が純文学を書くこともある。純文学とエンタメの中間もあり、村上春樹の小説のようなリアリティのない小説は一般的に純文学というよりも中間小説に分類される。

私が勝手に芸術としての純文学に期待するものは、社会と人間に対するリアリティと、作家の思想と、技法の洗練である。芸術観や人生観をもたない作家はどんな技法を持っていても芸術家ではありえない。技法だけがあって哲学がないのでは芸術家ではなく職人にすぎない。また、現実社会のリアリティに向き合うことなしに思想は生まれないので、思想とリアリティは一体のものであり、リアリティが欠けているものには思想も欠けている。言語芸術であるからには洗練された表現技法が伴わなければならないし、その表現内容が技法と釣り合っていなければ意味がない。
一人の作家は、その人が生きた時代を見るひとつの視線を提供する。我々は過去に戻って生きることはできない。平安貴族として生きることはできないし、鎌倉武士になることもできない。だからこそ、その時代を生きた人間にしか持ち得ない唯一無二の思想の記録として、小説は人類にとって価値がある。古典小説の価値は物語そのものの面白さよりも、その時代にしか持ち得ない思想を書いたことの価値が大きい。そして我々が生きている時代は現代なのだから、現代作家こそ現代に向き合った小説を書かなければならないはずだ。
一人の作家の思想を織り込んだ純文学は時間をかけて真摯に対峙する価値があると私は思っているものの、そういう純文学は古典や海外小説でしか見かけない。現代の日本の純文学で私が満足できる小説はほとんどなかった。

そもそも芸術の基本はリアリティである。モチーフを観察し、構成を分析して、それをリアルに描き出すという訓練を重ねることで技術が洗練されていく。これは絵画だとわかりやすい。まずは実物を見ながらデッサンをして、光と影、色彩、空間という物理的な事象を忠実に把握して、それを描写技術で再現しようとする。訓練を重ねることでやがて思い通りの線を引けるようになり、思い通りの色の組み合わせを作れるようになる。音楽でも、まずは一つ一つの音階やテンポを正確に演奏することから基礎練習をする。弦楽器にしろ打楽器にしろ、音楽は人が動かないことには音が出ないという物理的な事象である。曲の解釈だのアドリブだのというのは正確な演奏技術やコードの理論への理解があってようやくなりたつものだ。小説でもヘミングウェイが新聞記者時代に文章修行したように、余計な修飾を廃して事実を簡潔にデッサンすることで文章が洗練されていく。ミラン・クンデラは人間の実存を書こうとしていて、小説の構成を重視して小説的駄弁を取り除いて密度の濃い小説にすることを目指しているそうな。
しかし日本の純文学ではリアリティが軽視されている。大正時代の自然主義私小説の反動からか、リアリティそのものをつまらなくて工夫のないものとして軽視しているふしがある。そして文学的実験と称するポストモダンやSFやファンタジー小説もどきの奇抜な着想や、何を描写しようとしているのか不明な悪文や駄弁をつらつら垂れ流すのが文学的だとしてもてはやされてしまって、リアリティのない言文不一致に逆戻りしてしまった。作家が現実を見ないまま、他の小説を見て小説っぽいものを見よう見まねで作っているのである。
古代ギリシアのぼんくら哲学者は馬の実物を見ないまま馬がどういう生物か机上の議論をしていると批判されていたらしいけれど、百聞は一見に如かずというやつだ。リアルであるためには、まずは想像を廃して自分の目で観察することが必須である。
そもそも芸術表現というのは作者の感動の表出である。作者自身が直接モチーフに向き合わず、感動もしていないのなら、それは芸術ではありえない。日本の純文学の作家たちは実物を見ないまま資料に書いてある知識に想像を加えるだけで読者を感動させる素敵な物語が書けると思っているらしく、編集者たちはそんなエセ芸術を芸術扱いしているものの、そんなものは芸術でなくてただの金儲けのための商品である。リアリティを軽視して想像ででっちあげた自己満足の物語でデビューした純文学作家たちは結局大成しないままだった。そういうエセ作家が素直に消えるならまだましで、寄生虫のように文壇に巣くうからなおさら性質が悪い。

リアリティは小説の根本に必須で、その上で独自の工夫が必要なのだ。リアリティがないのに工夫だけあっても意味がない。日本では純文学はつまらなくてリアリティがない前衛のような小説として敬遠されているものの、世界の純文学作家は純文学だからといってつまらないわけではないし、純文学だからといってリアリティがないわけではなく、むしろ純文学だからこそ面白い。ドフトエフスキーは観察を創作の基本としていたし、ガルシア=マルケスのマジックリアリズムにしろ、ミラン・クンデラのシュールリアリズムにしろ、その基礎にはリアリズムがあり、作者の個人的体験や感動や、物語の舞台となる国の時代背景がリアルに作品に反映されている。リアルで、なおかつ奇抜で独自性があり、だからこそ面白い。それでこそその時代の社会や個人を描いた芸術作品として後世に残すだけの価値があるといえる。
日本の純文学作家で世界で一番読まれているのは村上春樹だろうけど、その村上春樹の小説に深みがないと批判されるのは、根本にリアリティがないからだ。安原顯が村上春樹の原稿を芸術としてではなくただの商品として扱って売り飛ばしたという気持ちも私は理解できる。
村上春樹が純文学雑誌でデビューして、エンタメというよりも純文学として受け入れられてしまったことで、舞城王太郎のようなリアリティがないエンタメよりの小説でも純文学雑誌に掲載されて純文学として読まれるようになってしまった。純文学もエンタメもどちらもリアリティがなく、どちらも芸術でないのなら、わざわざつまらない純文学を読む理由はない。ただの暇つぶしの娯楽として読むのならエンタメで十分なのだ。純文学にはエンタメではない芸術作品を期待するものの、そもそも芸術でないものが純文学として売られているのでは読む価値がない。

「もし文芸復興というべきことがあるものなら、純文学にして通俗小説、このこと以外に、文芸復興は絶対に有り得ない、と今も私は思っている。」と横光利一は『純粋小説論』の冒頭で述べている。じゃあ中間小説作家が増えた現在は昭和初期に比べて文芸は復興したのかというと、むしろ衰退している。中間小説は純文学にして通俗小説である純粋小説とはならず、純文学っぽい通俗小説にすぎなかった。
横光利一はドストエフスキーやトルストイのような偶然が多い通俗小説が純粋小説として見られるのは、思想性とリアリティがあるからだとしている。思想性とリアリティは現代の純文学にさえ欠けているのだから、よりエンタメよりの中間小説だとなおさらリアリティがない。

関連記事:文学新人賞のパクリについて考える
ミラン・クンデラ『小説の精神』


●純文学の衰退


・才能の縮小再生産

芥川賞、三島賞、谷崎賞といった有名作家の名前を冠した文学賞があるものの、芥川の文体に似ているとか三島の思想を継承しているとかを考慮されるわけでもない。○○賞と冠する意味はほとんどなく、違いは賞の知名度と賞金くらいしかない。それも読者とは関係のないところで賞を主催する出版社の都合で受賞作が決まる。大江健三郎は大江健三郎賞を開催して一人で受賞作を選んでいるものの、受賞者のなかに大江健三郎を超えそうな人はいない。芥川賞作家と呼ばれる作家は大勢いるものの、芥川賞作家という冠をはずしたらその作家自体にどれほどの知名度と価値があるのだろうか。5年前の受賞者はもう誰も覚えてないのではないだろうか。
かつて純文学といえば、一生をかけて理想を追求するものだった。歴史に名を残す日本文学の古典が生まれた大正時代の作家たちは、明治維新後に西洋から伝わった小説という新しい散文の開拓にいそしんだ。それぞれの作家が自分の信念をもって、金銭的に苦しい中で、後身を指導して、作家同士で議論して、切磋琢磨しながら思想と作風を重ねていって、理想を小説に託したのだ。
ところが今の純文学は芸術として一生をかけて追求するほどの価値がないものになった。文学賞の賞金は僅かで、単行本も売れず、作家として生計を立てられないどころか、作家になるための時間と費用と得られる収入を天秤にかけたら割に合わない仕事である。純文学というジャンル自体が芸術として行き詰まり、社会への影響力もなくなり、マーケット的にも終わっている。作家同士の交流も乏しく、流派もムーブメントもない。一部の作家が馴れ合っているだけで、理想の芸術を目指して切磋琢磨しているわけでもない。たまに作家や評論家の喧嘩が起きるものの、揚げ足取りのような悪口を言い合うだけで、そこから文学論争へと発展していかない。芥川龍之介と谷崎潤一郎が小説の芸術性をめぐってお互いの価値観をぶつけ合うようなことはもう起きない。現代純文学では自分の芸術観を語れる作家自体が少なく、辻原登や保坂和志といった大御所は独自の文学観を語っているものの、若手作家にはほとんどいないんじゃなかろうか。

マーケットとして終わった分野を盛り上げるために出版社が何をしたかというと、純文学の内容を見直すのではなく、逆に奇抜さで目立とうとしたり、話題づくりの一発屋や芸能人を売り込むようになって、ますます純文学離れを加速させてしまった。くだらない小説にほいほい三島だの芥川だのと作家名を冠した賞をあげて、作家たちが命がけで築き上げてきた純文学の信用を切り売りしていったのだ。ゴミ小説を書いて作家面するあほよりも、そんなゴミに値段をつけて売る編集者が一番読者を馬鹿にしているのかもしれない。
綿矢りさ、金原ひとみの若い女性の芥川賞の同時受賞は話題になってベストセラーを記録したものの、逆にこれがきっかけで芥川賞を見限ったという声も増えた。綿矢りさ、金原ひとみはこのまま作家を続けて歳をとっても後身を指導できるような作家にはならないだろう。若い感性を買われた作家は文学の知識があるわけでもなく、若さがなくなったら用済みになる。短期的には出版社は儲かったかもしれないが、長期的には純文学の市場を縮小させたことになりはしないか。

このように出版業界は地道に才能を育成することをやめて、突如天才が現れるのを期待するようになってしまった。しかし天才はいきなり出現するものではなくて、芸術の才能は地道に育てるものだ。絵画でも師弟関係があるし、音楽でも師弟関係がある。絵画にも音楽にも中世から続く数百年の伝統があって基礎技術が確立されているから、基礎技術を学ばないことにはプロとしての水準にはなれない。才能のある若い人が才能のある師匠から学ぶことで、古い技術が継承されて、新しい才能とともに洗練されていく。
しかし小説は技術が軽視されている。小説の技法の理論化や体系化が遅れていて、小林秀雄は1930年の「アシルと亀の子」という評論で「宿命的に感傷主義に貫かれた日本の作家たちが理論を軽蔑してきたことは当然である」「今日に至るまで音楽理論、絵画理論に匹敵するほど立派な文学理論というものは一つもない」と言っていた。大江健三郎も若い頃に方法論がなかったので苦労したというようなことをエッセイに書いていた。20世紀後半になってようやくフォルマリズム、構造主義、ナラトロジー、記号論などの外国の文学理論が日本語に翻訳されて研究されたものの、いまだに文学理論は軽視されていて、小説は誰にも技術を教わらずに一人で試行錯誤して書くものだと思われている。「下手に習うと下手がうつる」ということわざがあるように、理論を学ばないまま見よう見まねで下手な作品をまねてデビューして、下手なまま作品数だけ増やしてベテランになって、プロなのに技術水準が著しく低い作家が多い。三人称で小説を書けない作家や、ナラトロジーを理解せずに矛盾した語りをする作家もいる。しかしそんな技術的に低レベルな作品でも選考委員が技術を評価できないので芥川賞や直木賞をとれてしまっている。難しい知識や技術を知らなくても話し言葉だけでも小説は書けてしまうことも技術や理論が軽視される原因だろう。
技術軽視の定番のほめ言葉が「感性」というやつだ。感性は個人の才能だけれど、技術ではない。誰かに教えられるものでもなく、真似できるものでもない。技術が伴っていないのに感性を評価して未熟な作家をデビューさせてしまうパターンが特に若い女性作家に多く、人生経験が乏しくて知識の引き出しも少ないので、デビューしたもののその後はそれ以上伸びないまま消えてしまう。
技術や思想なら洗練されて進歩していくものの、感性は進歩しない。感性頼みで描かれた小説は出来栄えにむらがあって、たまたまいい小説が描けて芥川賞をとることはあるものの、その後にそれ以上の品質の小説を書き続けられるわけではない。編集者は創作者ではないから、だめな小説の書き直しをさせることはできても創作の技術を教えることはできない。誰も新人に技術を教えないので、感性を評価された作家はいつまでたっても感性頼みで技術が下手なままなのだ。綿矢りさが芥川賞を受賞した後にしばらくボツ続きだったのが典型的である。
さらに悪いことには、日本の純文学は技術を洗練させる方向へ行かず、むしろ特異な感性自慢に向かってしまった。目立ちたがりの作家が特異な感性を見せびらかすように身の回りのキチガイじみたできごとを垂れ流して、小説というよりも随筆のようなものばかり書いてマンネリに陥って、自然主義私小説と同じ袋小路に入っている。
海外文学ではこんな傾向はない。アメリカの大学にはクリエイティブライティングコースがあって、そこではワークショップ形式で創作の理論と技術を教えている。フラナリー・オコナーはアイオワ州立大学で創作を学んでいるし、ジュンパ・ラヒリはボストン大学で創作を学んでいる。感性自慢の私生活の垂れ流しなどせず、理論と技術に基づいて創作を行っている。
日本は理系分野ではものづくりの技術が評価されているものの、小説作りの技術に関しては海外文学から数十年遅れている。明治・大正時代の小説家たちが海外に留学して海外文学から小説の技法を学んだように、現代作家も海外に留学して技術を学ぶ必要があるのかもしれない。古典を研究せずに文学理論も哲学も知らずに見よう見まねでうわべだけ真似て小説を書いた新人が出てきたところで、石器を持った原始人がタイムスリップしてきたようなもので文学の進歩にたいして寄与しない。
技術の積み重ねがどれほど重要なのかは将棋や囲碁を見ればわかる。将棋や囲碁は対局後にすぐに検討に入って、対局者だけでなくて観戦していた他のプロ棋士も検討に加わってどの手が良かったのか悪かったのかを考察して、試合がない日も門下生同士で古い棋譜を勉強したりAIの新しい定石を覚えたりして日々の研鑽を積み重ねていくので、江戸時代の棋士よりも現代の棋士のほうが格段に強くなっている。一方で小説は賞レースでさえ選考委員から原稿用紙数枚のコメントをもらえる程度で、それ以外だと月評で新人をちょっと取り上げる程度でフィードバックが乏しいし、創作する量が少ないうえに古典の研究もしない。これではプロなのに小説が下手で古典以下の価値しかないのも当然である。

・編集者の劣化

文芸誌の編集者の役割は、才能ある作家を見つけて世に送り出すことだ。その才能を見つけて芸術としての価値を値踏みする目利きでなければならない。編集者は雑誌運営のための事務員が本業ではない。そもそも世に送り出す才能がないような文芸誌は存在する意義がない。ただ雑誌を存続させるためだけに惰性で仕事をしているなら本末転倒である。安原顯は原稿を集めるだけが仕事の編集者にはクズ小説と傑作を見分ける眼力がないというようなことを書いていた。
「世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り」ということわざがあるけれど、才能を見出す優れたパトロンがいなければ芸術家も育たない。もしメディチ家の庇護がなかったらルネサンスの画家たちは創作機会も乏しく技術も未熟なままだったかもしれないし、もし菊池寛が他の作家に経済的援助をしていなかったら貧乏な純文学作家は借金返済に追われて小説を書くどころでなくなって日本の古典小説のうちのいくつかは存在していなかったかもしれない。能力を見抜いて育てる人がいなければ、どんな才能ある人がいたとしても育たない。逆に、有能な編集者は次々に作家の才能を見出して、様々な世話をやいて創作を助け、才能を世に送り出していくものだ。
有能な編集者の例として、フォード・マドックス・フォードをあげる。フォードはThe English Reviewを設立して、ウィンダム・ルイス、D・H・ローレンス、ノーマン・ダグラスをデビューさせ、またヘミングウェイ、ジョイス、ガートルード・スタイン、エズラ・パウンドと交流して援助した。歴史に残る名編集者であり、イギリス文学史に残る作家でもあった。文学への感性が鋭い一流の目利きである。
小林秀雄は文學界の編集者をやりつつ評論家として活動して文学の発展に多大な貢献をした名編集者だけれど、現代の文壇では名編集者の名前を聞かない。名編集者の名前を聞かないどころか、編集者の名前自体が表に出てこない。大手出版社の中でポストを移動するサラリーマン編集者たちで、結局は大手出版社の看板で仕事をしていて、自分の名前で仕事をしていないのだ。
かつては「海燕」の編集長で新人の発掘と育成に力をいれて、よしもとばななを世に送り出した寺田博も過去の人になってしまった。芥川賞作家を何人も輩出して敏腕編集者と言われた元「文學界」編集者の湯川豊は、何冊かエッセイを出版しているし退職後も自分の名前で仕事をしていて、方や湯川豊がいなくなった「文學界」は近年ろくな新人を輩出できていないというていたらくである。安原顯も村上春樹の原稿流出事件に批判もあるものの、編集者として名をはせた。
他の雑誌と比べると、たとえば競争が激しい女性ファッション雑誌では、『小悪魔ageha』の中條寿子編集長や『LARME』の中郡暖菜編集長などが自分のこだわりを前面に押し出して一から新しい雑誌を作り上げていて、それが読者に支持されている。『小悪魔ageha』は中條編集長が辞めてからは買うのをやめたという読者がいるほど、編集長の価値観が読者に支持されていた。彼女たちは会社の看板に頼らずに自分の名前で仕事をしてる編集者たちである。
一方、純文学雑誌では伝統ある看板がいつまでも捨てられず、編集長が代替わりしても雑誌の特色が変わるわけでもなく、新しい試みがされるわけでもなく、新規読者も増えない。編集者のこだわりがどこにあるのかも読者に伝わっていない。純文学誌の編集者だからといって、必ずしも純文学の専門家で純文学一筋にやってきたわけでもなく、他の部署から移ってきて純文学に疎い編集者もいるという。講談社や集英社の新入社員は漫画雑誌の編集者志望が多くて文芸誌の志望者がほとんどいないそうで、そのせいか「群像」や「すばる」はエンタメ寄りで芸術としての文学を評価できていない。Twitterで「文藝」のアカウントをフォローしていたら編集者募集のツイートが流れてきて、正確な文面は覚えていないけれど、雑誌を変えてくれる人募集という信念もなにも感じられない他力本願の内容で、こんな募集をするようでは「文藝」はもうだめだと思った。編集者自身がやりたいことがないならなんで編集者をやっているのか不思議である。
出版社も赤字の純文学に力を入れているわけでもなく、少人数で運営しているため多忙で、編集者なのに本を読み込む時間がないという。一昔前の編集者は文壇バーに作家を連れて行って作家の見聞を広めたり人脈を広めたりするパイプ役になっていたそうだけれど、今の編集者がプライベートで作家と交流があるという話はあまり聞かない。編集者の世代交代でかつての仕事一筋の編集者が去っていき、若い編集者は公私を混同しない普通のサラリーマンになったのかもしれない。しかし大手出版社高い給料をもらって赤字の雑誌の編集者を続けるのは、サラリーマンとしては首になっても仕方ない仕事ぶりである。編集者自身が何か新しい試みをやるわけでもなく、芥川賞という先人の偉業に寄生する既得権益になっていないか。

本の帯や裏表紙に「傑作」という宣伝がある場合が多いものの、これにも編集者の劣化が見えた。作者が自分で傑作だということはほとんどないので、編集者が勝手に傑作扱いしたのだろうけど、いったいこの編集者は何の基準で傑作だと判断したのか。作者が生涯書いた小説の中での傑作なのか、それとも古今東西の全作家の全作品と比較してもなお傑作だといえるのか。前者ならもうその作者の小説は読む価値がないし、後者ならこの編集者が担当した小説は全部読む価値がないだろう。他にも軽々しく傑作を宣伝文句にする小説は多数あるけれども、それのほとんどが私にとっては読む価値のない駄作だった。軽々しく傑作という言葉を使う編集者が担当するような小説が駄作になるのも必然なのだろう。そもそも小説は個々の読者が価値を判断するものだし、作者はそのことを良く知っているはずである。作者にとって思い入れのある作品だとか、そんなのは読者にとってはまったく関係のない話で、読者は自らの人生経験と照らし合わせて無数の本を読んだうえで、自分にとっての傑作を見つけ出していくのだ。編集者や書評家が傑作認定した小説に読む価値があるのではなく、読者が自分で傑作だと思った小説こそ読む価値があるのだ。軽々しく「傑作」を宣伝文句にする編集者は読者を馬鹿にしているか、小説の本質をまったく理解していないのではないかと思う。
不動産業界だと宅地建物取引業法で誇大広告は禁止されていて、「抜群」「完璧」といった主観的な言葉を広告に使えなくて、代わりにマンションポエムなるキャッチコピーをコピーライターが考案しているという。さて小説の「傑作」という宣伝文句はどうか。匿名の編集者の主観丸出しで、傑作と呼ぶ根拠も十分に説明されていない場合がほとんどで、売れさえすれば読者が駄作と思おうがかまわないという悪質なやりかたである。編集者が実際にその小説を傑作だと思っていたとしても、マンションポエムのキャッチコピーにも劣る工夫のない陳腐な宣伝文句にしかなっておらず、誇大広告で読者をだますような不誠実な宣伝文句は逆効果でしかない。

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・純文学業界は自浄作用が働かない

雑誌が売れなくて万年赤字でも廃刊することがないという状態に慣れきってしまっていて、文芸誌は読者を増やそうという気がない。生存競争が激しい他の雑誌と違って、出版社間での競争も起きていない。発行部数は横ばいのまま、ヒット作を掲載して発行部数が増えるということもなく、ただ雑誌存続のためだけにほとんど読者のいない雑誌が惰性で発行されている。
文芸誌はかつて新人輩出としての役割は果たしても、今はろくな新人が育っておらず、編集者に新人作家を育てる力もなくなっている。看板は同じでも料理人が変わって味が落ちたレストランのようなもので、いくら伝統があっても中身が伴っていないのでは存在価値がない。
編集者の劣化は、出版社が編集者を増やして雑務の負担を減らして作家と付き合う時間や本を読み込む時間を増やしたりして優秀な編集者を育てることでしか防げないものの、出版社は売れない純文学には力を入れていないから、優秀な編集者が育っていない。

そのうえ、文学賞の選考委員も長い間居座って入れ替わりが乏しい。選考基準が不透明で主観的な上に、技術や内容の評価とは関係のない作家同士の個人的な因縁による好き嫌いで作品が判断されて、一部の声が大きい選考委員が恣意的な選考を続けている。
その文壇の利権と腐敗の象徴となっているのが芥川賞だろう。芥川賞受賞作が売れなくても、選考委員が売れ行きに責任を持つわけでもなく、読者に受け入れられないくだらない小説を世に送り出し続けている。誰も責任をとらない合議制での選考スタイルで、選考委員の誤読を指摘したり偏向的な選考を矯正したりできるような選考自体の監督責任者がいない。この旧態依然とした合議制の選考スタイルに誰も疑問を持たないのだろうか。編集者が直接選考したら客観的な評価ができずに自社の利益になる作家が選ばれてしまうから、無関係な作家や評論家に最終的な選考を託すというのはわかる。しかしその受賞作を決める最終選考の前の、候補作を絞り込む段階で出版社の利害に基づいた恣意的な選別が編集者によって行われているのだから、いくら最終的な判断を作家に託しても意味がないのだ。受賞作がつまらない場合にはそれを選んだ選考委員の作家が読者非難の矢面に立つものの、作家の側にしても、どうしてこんなものを候補に挙げるのだと怒るようなものを編集者が候補に選んでくるというのだから、純文学が衰退している根底の原因は編集者にあるのだろう。
また、批評家にしても自分の感性で素直に小説を批評せず、出版社の御用聞きの宣伝担当になってしまっている。批評家はくだらない小説のくだらなさには触れずにいい所だけ紹介して、書評にだまされて本を買った読者はますます純文学への信用を失っていく。
編集者も、選考委員の作家も、批評家も、自分の利益のために仕事をしていて、読者にとって最高の作品を送り出すために仕事をしていないのだ。大塚英志や東浩紀らの出版業界人からも、一般読者からも純文学に対する様々な批判の声が上がってきたものの、それすら編集者には届いておらず、何も改善の兆しがない。
漫画ではアンケートハガキや人気キャラ投票で読者と作者や編集者が交流している。読者アンケートに賛否両論はあるものの、人気のない漫画はたとえベテラン漫画家でも打ち切られて、その分新人の発表の機会が増えて、漫画家の新陳代謝がおきている。新人漫画家の『鬼滅の刃』がヒットしたのが典型的である。
一方で、純文学では実力主義でも人気主義でもなく文壇の力関係が優先されて、読者の声は作家にも編集者にも届いていない。長く書いているだけがとりえのベテラン作家がくだらない小説を連載して小遣いを稼いで、文学賞の選考委員に何年も居座って幅をきかせている。作家の新陳代謝がないということは、読者の新陳代謝もないということだ。

●今後の純文学への期待

私は芸術の感動を求めて小説を読み漁った結果、本物の芸術には数えるほどしか巡り会えないまま時間と金を浪費してしまった。楽しく思える読書よりも苦行のほうが多かった。友人に勧めたいような良書は現代純文学にはほとんどないし、もう純文学を読まなくてもいいやとさえ思っている。
純文学雑誌が主催する新人賞が才能ある作家の発掘の役割を果たしておらず、ゴミのような小説を平然と世に送り出す編集者の審美眼もあてにならないとなると、既存の純文学誌には何も期待できない。期待できないどころか、既得権益化した文壇は才能の発掘・育成にとっては障害となるからむしろ廃刊してゴミ作家とゴミ編集者を一掃してほしいとさえ思っている。
現代の日本の純文学が読む価値がないからといって、純文学というジャンル自体に価値がないとは思っていない。私は純文学ほど作家の思想と知識と技術を余すところなく詰め込める芸術はないと思う。小説投稿サイトやSNSなどの作品の発表の場所はいろいろあるので、形骸化した権威となった既存の文学賞とは別のところから本物の日本の純文学と呼べるような芸術作品が世に出てくることを期待したい。

2014/11/4投稿 2021/8/18更新 三角猫
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(=‘ω‘ =)ニャー


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